一幕 月籠 4

NOVEL HOME      INDEX   BACK NEXT



 月彦は美弥子を店に連れて来ると、暑いでしょうと言って冷えた麦茶を出した。美弥子は有り難くそれを口に含み、喉を潤す。年甲斐もなく泣いてしまったため、喉が渇いて仕方なかったのだ。次いで月彦は、冷やしたタオルを持ってきた。
「どうぞ、冷やしてください」
 泣けば瞼が腫れる。若いのに随分と心遣いができていると感心する。ひやりとしたタオルの感触が、僅かに熱を持った瞼に心地いい。
「そういえば、まだ名前も言っていませんでしたね」
 自分の麦茶を用意して、月彦は美弥子の向かいに腰を下ろした。
「葉山月彦と申します。どうぞ月彦とお呼びください」


「息子は、充貴というんですけど、いつの頃からか、おかしくなったんです」
 詳しい話をと、月彦が促すのに、美弥子は話し始めた。初めの内こそ、躊躇しながら、月彦が相槌を打って先を促していたが、やがて堰を切ったように話し出した。まるで、ずっと誰かに聞いて貰いたかったのだと、そう言っているかのように。

「ある晩、急に様子がおかしくなって、どうしたのかと思ったら暴れだしたんです。それはもう、凄い暴れようでした。私も主人も手を付けられないほどで。息子は二十歳ですし、私達と体力で争える筈もありません。その晩は納まってくれることを祈りながら必死で言葉をかけました。朝方、ようやっと正気に戻って、どれだけ安堵したことか、主人はどうして急に暴れたりしたのかと問い質しましたが、息子はその間のことを何一つ覚えていなかったんです。
 それからしばらく、何も起こりませんでした。だからその一回限りのことだったのだと思いました。きっとストレスでも堪っていたのだと、そう考えることにしたんです。でも、また同じことが起こったんです。やはり急に暴れだして、朝方には正気に戻り、そしてその間のことを何も覚えていない。これはおかしいということで医者に診せようとしましたが、何分本人が覚えていないもので、精神科に掛かることを嫌がりまして。無理矢理に連れて行くこともできずそのまま。またしばらくは何も起こりませんでした。
 でも私はいつまたそうなるのかと、不安で堪りませんでした。案の定また異変が訪れました。その時に気付いたことは、それが三十日間隔で起こるということ。必ず朝には治り、暴れるのは夜の間だけ。そして、その日は決まって、満月が出ているのです」
「つまり、満月が出ている間だけ、息子さんに異変が起こるのですか?」
「そうです。そうとしか考えられません。そのうちに近所で噂が立ち始めて、相変わらず息子は知らないと言い張るし、主人は家に帰ってこないようになるし……」
 引いた筈の涙が美弥子の目を再び潤ませる。そんな美弥子の手を月彦はそっと握った。
「お、狼男が出ると言うんです。決まって満月だから。それに、暴れている時の息子は、まるで獣のような声を上げるんです。だから、何か獣の霊がとり憑いているんじゃないかと……だから、ご先祖様に、助けて頂こうと、お墓に……」
「だからあんなに一生懸命にお祈りしていたんですね」
 また泣き出した美弥子に、月彦は隣に座ってその背を撫でた。
「もう大丈夫ですから」
 安心させるように、声を掛け続けた。



「これは?」
「お守りです」
 ようやく泣き止んだ美弥子の前に月彦は一つのお守りを差し出した。手の平に納まるほどの大きさで、赤い布で被われている。表に書かれている文字は流暢な流れ文字で、尚且つ擦れていて読めなかった。よくよく見ると、布の所々が解れていて、随分と年代物であることを感じさせる。
「邪気を祓うことが出来るという謂れのお守りです。もしかしたら息子さんのことに役立つかもしれません」
「邪気を……祓う」
「ええ、そうです。ですが、何分僕も店の売上で生活をしている身なので、店の品をただで差し上げるというわけにはいかなくて……」
 歯切れ悪く、申し訳なさそうに言う月彦に、今度は美弥子が安心させるような笑みを浮かべた。
「気になさらないで、おいくらかしら?」





 ようやく事の顛末を母から聞き出した充貴は、素直に驚いていた。周到に、相手から金を出させる手口も勿論だが、それをしたのがまだ高校生だという事実だ。そんな子供にころりと騙されてしまうほどに、母の精神状態は参っていたのだろうかと思うと、原因が自分である以上、申し訳ない気持ちになる。
 握り締めた赤い布地のお守りに視線を落とす。これにそれほどの価値があるとは到底思えなかった。はっきり言ってただのぼろいお守りだ。それにお守りの期限は一年間だと聞く。ということは、この骨董品のお守りの効果はとうに切れているのではないだろうか。
どちらにしても、母が出した金額の価値はない。



NOVEL HOME      INDEX   BACK NEXT

Copyright © 2008- Mikaduki. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system