一幕 月籠 1

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 九月も半ばだというのに日中は茹だるような暑さが纏わりつき、身体を重くさせる。道を行き交う人々は、滲む汗で水分を減らしながら歩いている。手で顔を仰ぎ、僅かばかりの涼を取ろうとする者もいる。
 月彦はそんな様子を見ながら、店の前に打ち水を撒いていた。アスファルトに何度も柄杓で汲んだ水を与え、瞬く間に飲み込んでしまうのを繰り返す。
「まさに焼け石に水、だな」
 店の中から現れた男は、そう言って月彦のしていることの無意味さを揶揄する。
「何もしないよりは、幾らかはましでしょう」
 反論する月彦は、男とは対照的に汗を少しも掻いておらず、涼しげだ。高校の制服である長袖のワイシャツを第一ボタンまできっちり留めて着ている。
「お前の格好が一番暑苦しい」
「そう言われても、制服ですから」
「半袖があるだろう。それに律儀に上まで止める奴があるか」
「校則ですから。それに、今はまだ冬服の時期なんですよ」
「嘘を吐くな。夏服を着てる高校生がそこらにいるじゃないか」
「他所の学校では知りませんけど、うちの学校では九月から冬服です」
「ああ、そうかよ」
「そうなんですよ」
 男は煙草を取り出して火を点けた。ゆっくりと煙を吐き出すと、月彦に煙草を勧めるように差し出した。
「知ってると思いますけど、僕は未成年なんですよ」
「知ってるよ。俺はお前の叔父だからな」
 尚も勧めてくる叔父に、月彦は首を振って拒否した。
「遠慮します。煙草臭いと、母に小言を言われるので」
「俺も言われたよ。だからここで吸ってるんだ」
 この暑い中、外に出てきたのは母に追い出されたかららしい。母は煙草の臭いを酷く厭う。身体に与える影響を考えたら当然のことだろう。母のお腹は大きく膨らんでいる。
「一体いつになったら家の中で煙草が吸えるようになるんだか」
「さあ、僕には何とも」
 母の腹は、もういつ生まれてもおかしくないほどには膨れている。明日か、明後日か、まだまだ先か。

「そういやもうすぐ彼岸だな」
「ええ、お祖母さんの命日です」
 祖母が亡くなった日も、夏も終わりだというのに、とても暑い日だった。
「行くのか? 墓参り」
「祖母の命日ですから」
「俺は行かない。母親の命日だけどな」
「薄情な息子ですね」
「可愛い孫が行くんだ。十分だろう」
「偶には可愛い息子に来て欲しいと思っていますよ」
「思ってないさ。絶対にな」
 吐き捨てるように言う。生前の祖母と、叔父は仲が良くなかった。いがみ合うのとはまた違う。祖母は叔父の存在を認めていなかったように思う。
「姉さんは連れて行くのか?」
「いえ、一人で行きます。いつも通り」
「まあ、無理だよな」
 叔父はまだ少ししか吸っていない煙草を投げ捨てると、踏み潰して火を消した。そのまま店の中に入っていくのを、月彦は黙って見送った。
 この時期の叔父は少し機嫌が悪くなる。それは他人に気取らせないほど僅かだ。だから、生まれた時から同じ家に住んでいる甥の月彦には、それがわかる。
 落ちた吸殻を拾い上げると、月彦も店の中に入った。




 月彦の家は店をしている。骨董品屋だ。屋号を月籠という。雑然と並べられた品々に、一体どれほどの価値があるのか、恐らくほとんどの者はわからない。粗雑に扱われている物の中に、驚くほど高価な品が眠っていることもある。極々稀に、だけれども。
 物の価値を決めるのは買い手だ。欲しいと思った品にどのくらいの金を出すか。それがこの店の物の価値だ。だがそれは、客が自由に物の値段を決めていいということではない。あくまで値段を決めるのは売り手側。客を見て、どのくらいの額を出せそうか。身なり、話口調、それらから値段を算出する。そうした売り方に問題があるだろうことは知っている。それでも、提示した額で買うか買わないか、決めるのは客だ。無理に売りつけるようなことはしない。
 吸殻を灰皿に捨てると、月彦は店内を見渡した。人の頭ほどの大きさの真っ白な壺が消えている。
「ここにあった白い壺は?」
「ああ、売った」
「あれは縁起物だから、しばらく置いておくと言っていませんでしたか?」
 月彦にしてみれば、つるりとした白の表面はいつかの骨壷を思わせて、とてもそうだとは思えなかった。
「金もってそうな女が来たんだ。いい値段で買ってくれたぜ」
「いくらで売れたんです?」
 叔父は、グラスに注がれた琥珀色の液体を飲みながら、月彦に三つ指を立てて示して見せた。ふらふらと、これ見よがしに振っているグラスの中身はブランデーだろうか。中に入った大きな氷が融ける前に、中身は叔父の腹の中に消えていった。
「こんな早い時間に、しかもそのまま飲んでいるんですか?」
 月彦が学校から帰ってきてからまだ一時間も経っていない。部活動をしていない月彦は、三時には帰宅する。
「酒は夜飲むものだと、決まっているわけじゃないだろう。それに、何か混ぜたら折角の味が落ちる」
 再びグラスに液体が満たされ、そして瞬く間に消えた。
「程々にしてくださいね」
「嫁みたいな台詞だな」
「いないじゃないですか」
 叔父は未だに独り身だ。結婚する気配もない。特定の相手がいるかどうかすら疑わしい。
 くっと、叔父が哂う。
「お前が嫁に来るか?」
「無理ですよ。僕は男です。それに、三親等では結婚できません」
「冗談だ。真面目に答えるな」
 くつくつと、再び叔父は笑った。少しは機嫌が良くなったように見える。
 月彦は着替えるために、店の奥の自室へ向かった。



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