用法・用量  【前編】

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 1、2、3、4、5、……

 心の中でカウントしながらじっと観察するように眺める。
 それは少しずつ意識を失って、ゆっくりと目を閉じた。
 試しに触ってみても反応はない。
 その様子に、にやと口を歪めて笑う。

 さあ、これからがお楽しみだ。





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「おはようございます」
 挨拶とともに開かれた職員室のドアから若い女性が入ってくる。新任の英語教師である彼女は名を涼原愛美という。大学を卒業したばかりの22歳という若さに加えて、美人でスタイルが良いことから当然のように生徒のみならず同僚の男性教諭からの人気が高い。彼女の登場で一気に場の空気が華やいだようになった。

「いやあ涼原先生、今日も綺麗ですねぇ」
 自分の席に着いた愛美に早速といったふうに声を掛けてくる。見上げればいかにも下心ありますといった体育教師の益田がいた。二年の担当の愛美と三年の担当の益田では席はそれなりに離れており、わざわざ教室を横切ってこなければやって来れない。元々職員室に入ってきた同僚一人一人に挨拶に回るという習慣があったわけもなく、愛美が赴任してから愛美限定に行われている日課だった。
「おはようございます、益田先生」
 正直愛美自身何の感情も抱いていない益田に毎日こうして過剰に接してこられることを快く思ってはいなかったが、はっきりと誘われたわけでもなく、ただの朝の挨拶と言ってしまえばそれまでなので、意識して普通に返すことにしている。益田は嬉しそうな顔をし、そのまま愛美の傍に居座るつもりのようだ。これも毎回のことで、既に諦めている。

 でも、もうすぐ――

「おはようございます、涼原先生」
 益田の言葉に適当に相槌を打っていると、隣の席の新海が出勤してきた。愛美と同じ二年の担当で物理教師。益田に捕まっている愛美をさり気なく助けてくれる。31歳になる彼は中々に格好良く愛美の好みなのだが如何せん既婚者である。
「おはようごさいます、新海先生」
 益田に対する対応とは少し差がでているかもしれないと自覚しつつ、でもそれに益田が気付いてくれることを密かに願う。
「益田先生も、おはようございます」
 も、をやや強調して言う新海に、益田は憮然とした調子で挨拶を返す。
 これもいつものことだった。

 不意につんと鼻につく香りがした。
 何だろうと思って愛美が振り返ると気配もなく益田の後ろに立っている存在に気付き思わずひっと息を呑んだ。
 そんな愛美の反応に益田と新海が揃って目を向ける。益田はうわっと驚き悲鳴を上げ、新海は眉を顰めて瞬間嫌そうな顔をした。
 そこにいたのは二年担当の科学教師、萩野だった。
 手入れをしているのか疑わしいボサボサの黒髪と、矢鱈にでかく分厚い今時見ない黒縁眼鏡。その二つが顔を大部分を覆っていて、正直不気味だ。だが例え不気味だと思っても同僚である、誤魔化すように挨拶をした。
「邪魔」
 愛美の挨拶には一切反応せず、通路を塞いで進行を邪魔している益田にぼそっと言い放つ。言われた益田は逃げるように自分の席に戻っていった。朝のHRの時間が迫ってきたからか、萩野を恐れてか、恐らくは後者だろう。邪魔者は去ったとばかりに萩野は自分の席についた。
 萩野の通過した後に先ほどのつんとした臭いが舞った。恐らく着ている白衣に染みついた薬品の臭いだろう。萩野は化学教師らしく常に白衣を身に着けていて、洗濯しているのか微妙だが、何かの染みやら焦げ跡やらがやたらとついている。

 いつもは誰よりも早く来ているのに今日は随分とぎりぎりだ。
「今日は遅いんですね」
 気になってつい口に出してしまったが、萩野が返事をくれるとは思えず余計なことをしてしまったと思った。
「いつも通りに来たよ。ちょっとやることがあって、化学室にいただけ」
 予想に反して普通に返答が返ってきた。
 そういえばいつもその雰囲気に嫌煙してまともに話をしようとしていなかったことに今更気付く。もしかしたら考えているよりもまともな人なのかもしれない。

 萩野は愛美とは対照的に生徒にも同僚の教師にも厭わられている。風貌もそうだが、凡そ愛想というものを所持していないのが原因だろう。授業外の大半の時間を化学準備室で何か怪しげな実験をしているらしく、朝以外に職員室で見かけることは滅多にない。



「涼原先生」
 一時間目の授業に向かう愛美に新海が声を掛けた。
 二年D組に向かう愛美と二年A組に向かう新海は自然と並んで歩き出した。ちらりと向ける視線の先には左手の薬指に収まった銀色の指輪。新海は新任の愛美にとても親切にしてくれて、仕事のことも勿論だが、益田のような相手からもさり気なく守ってくれる、とても好感の持てる男性だった。既に結婚していることを残念に思ったが、時々聞く奥さんの話に大事にしているんだなという感じがして益々好感を持った。困ったときは何でも相談してくれと言われ、愛美は幾度もその言葉に甘えてしまっている。
「萩野先生のことだけど……あまり関わらない方がいいよ」
 言い難そうに、だがはっきりと告げた新海の言葉に愛美は驚いた。
 確かに萩野は好かれてはいないだろうが、流石に皆露骨に態度に示したりはしない。何より新海という人間がこんなふうに影で他人を悪く言うことがらしくないと思った。
「えっと、でも、同僚ですし」
「まあ、そうなんだけど、あんまりいい噂聞かないしさ、必要以上に話したりしない方がいいよ」
「はぁ」
 噂とは怪しげな実験云々というやつだろうか。そんな曖昧な噂で萩野を非難するなんて、やはり新海らしくない。しかしそれを指摘するのも躊躇われて、そうしている間に教室に辿り着いて新海と別れた。


 新海に言われても、愛美の立場としては萩野と友好関係とはではいかなくても、まともに会話をするくらいには親しくしておきたいと思う。同じ学年の担当なのだし、新海には相談できないことだってある。
 しかし、何かにつけて、話し掛けようとするのだが、萩野の応対は変化することなく、同僚として必要最低限の会話しかしない。加えて、その度に新海にやんわりと窘められるのだ。
「こんなこと言いたくないんだけど、涼原先生が赴任する前に色々あって……」
 最後は言葉を濁して、その色々が何なのか結局教えてはくれなかった。
 そうしている内に、愛美は新海の言葉を受け入れるようになっていた。
 あの新海が言うのだから、よっぽどのことなのかもしれない、と思う。それに新海ははっきりとは明言しなかったが、聞こえてくる噂にはかなり危険なものも含まれている。風貌も言動も、何一つ新海に反論する要素になりえないどころが、肯定材料にしかならない。
 関わりを絶とうとするのは簡単なことだった。愛美が故意に萩野に接触しようとしなければ、愛美と萩野の接点は朝の数十分だけ。元々萩野は職員室にいることが滅多にないため関わろうとする方が難しかったとも言える。





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 ずき、と頭が悲鳴を上げる。
 ぼんやりとした視界で現状を理解しようと努める。
 何で、こんなことになっているのだろう。

 頬に当たるのは冷たい床の感触。
 後ろ手に拘束された両腕。
 口に食い込んだ布。

 視界とともに鮮明になっていく思考とは裏腹に、急激に恐慌状態へと陥っていく。
 何故自分は、こんな風に拘束されて、床に転がされているのか。

 いつものように学校を終えて、帰ろうとして?
 否違う。
 今日は当直で、だから遅くまで残っていなければならなくて、それで、見回りを…

 そうだ、見回りの途中で、後ろから誰かに――



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