見納めの笑顔

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 好きな人が、今日会社を辞める。

 出社して間もなく始まった朝議の時間、フロアには朝陽が射し込んで、笑う彼女の顔が輝いて見えた。課長の隣で、先程女子社員に貰った花束を抱えて、少し寂しそうな、でもそれ以上に幸せそうな笑顔で、お世話になりましたと挨拶をしている。
 それは、所謂寿退社と言われるもので、結婚を期に家庭に入って、彼女は専業主婦になる。だから、皆は寂しくなるねと言う一方で、幸せにね、とか、羨ましい、とか、手向けの言葉を送っている。

 少し遠くから、それを見ていた。
 その輪に入って、彼女に言葉をかけることは出来なかった。どうして幸せになってなどという言葉を言うことが出来るだろう。自分が言うには、酷く無責任のような気がしてならなかった。
 朝陽で眩む、彼女の笑顔は、酷く胸を締め付けた。ああもう、ここで彼女を見ることは叶わないのだ。感傷的な自分が言った。


 初めて会ったのは、新入社員の研修が終わり、彼女がここに配属された時だった。短大卒の彼女はまだ二十歳で、学生気分が抜け切らないあどけなさがあって、何だか数年前の自分を懐かしく思ったのを覚えている。大卒で入社した自分は彼女より二歳上だったけれど、研修で突きつけられた学生と社会人の決定的な違いを実感させられて、期待とそれ以上の不安を抱えて配属先にやってきた。
 緊張した面持ちで自己紹介している彼女も、そんな状態だろうかと、微笑ましい気分で見ていた。よろしくお願いしますと言って頭を下げた彼女の黒髪が、肩にさらさらと流れる。上体を起こし、控えめな動作で髪を耳にかける仕草と、伏し目がちで紅潮した頬の彼女の顔が、何故か妙に目に焼きついた。
 思い返してみれば、それは一目惚れというやつだったのかもしれない。

 同じ部署で働いていても、これから仕事を覚えていかなければならない新入社員と、勤続数年が経ってそれなりに大きな仕事を任せられるようになった自分とでは、それ程多くの接点はなかった。折りしも、大きなプロジェクトのリーダーを任されて、それはすごく名誉で遣り甲斐のある仕事だったけれど、その分の忙しさは比じゃなかった。
 顔を合わせれば挨拶をする程度の交流はあったけれど、気安く雑談を交わす程ではなかった。彼女の教育係に指名された同期が、仲良く笑ってじゃれ合っている様子を目にしては、このタイミングでなければ、あそこにいたのは自分だっかもしれないなんて、惨めな嫉妬を向けたこともある。その同期からは、先を越された、なんて妬みにも似た称賛の言葉を貰ったことを思い出し、何だか酷く複雑な思いに駆られた。

 それから暫くして、係わっていた仕事が無事に終了した。一つの仕事が終わればまた次の仕事が待っているだけで、且つ平行して携わっている仕事もあるけれど、初めて責任者という立場に立たされていたことは、自分で思っていた以上に重圧を感じていたらしかった。肩の荷が下りたと、人知れず安堵した。
 自分としては、それはもう必死でこなしていた日々だったが、元来の性質故か、然したる努力もなく易々と遣り退けたように見えたらしい。成功して当然だったという雰囲気は、己の能力を高く評価して貰っている証で、それは寧ろ喜ぶべきことなのだろうけれど、欲張りにも労いの言葉一つくらい掛けて欲しかったと、考えている自分がいた。

 だから余計に、彼女の何気ない一言は胸を突いた。

 お疲れ様です。それは、終業時であれば当然の挨拶で、交流がそれ程なくても、日常的に言われている言葉だった。何も彼女に限ったことでもなく、誰にでも言われるし、逆に誰にでも言う言葉。だからきっと、それを特別に感じてしまったのは、その時のタイミングと、受け取る側の自分の願望の所為だったのかもしれない。それでも、言葉と共にデスクに置かれたコーヒーに、いつもは無いチョコレートの包みが二つ添えられていて、気のせいかもしれないが、他の人にはそれが無く、疲れた時には甘いものというよく聞くフレーズが、彼女が特別自分だけにした気遣いだったのではないかと思わせた。
 一つ、包みを解いて取り出したチョコレートを口に入れ、舌の上で溶けていく甘さに暫し酔った。もう一つ、食べようとして、しかしそうしてしまうのが惜しく思えて、伸ばした手を止めた。女子中高生のようなその思考に苦笑して、それでも暫く、チョコレートはデスクの上にいて、密かに自分を癒してくれた。

 たったそれだけのこと、改めてお礼を言うようなことでもなかったけれど、恐らくはそれを言い訳にして、彼女と二人で話をしたいと、願うようになった。願いは、当然願うだけでは叶うことなく、彼女がここに配属されてからの月日で構築された人間関係という壁を壊すように突き進む気を起せず、まんじりと日々は過ぎていった。

 あの日の出来事は、そんな自分に与えられた最初の、そしてきっと最後の機会だったのだろう。

 何が理由だったのかは覚えていない。そもそも理由なんてものは最初からなかったのかもしれない。とにかく、業務終了後に飲みに行くことになった。最低でも月に一回は、そんな飲み会が行われている。いつも、行けない理由がなければ顔を出すことにしている。それは、円滑な人間関係の為であったり、唯単に酒が飲みたい為であったりするが、ほんの少しの期待も、なかったとは言わない。
 職場は比較的友好的で、いつもそれなりに人数が集まる。だから、それ程親しくない彼女の近くに座れることは殆どなくて、隣の誰かと笑っている様子とか、どうやらそんなに酒に強くないらしく、一時間経っても同じグラスを少しずつ傾けている、ほんのりと赤くなった顔を視界の端に収める程度のことを無意識にしていた。
 その日は珍しく、彼女は酔ってしまったらしい。口調ははっきりしていたが、少々足元が覚束なくて、誰かが送っていくことになった。偶然にも彼女と同じ沿線だったのが自分で、他に誰もいなかった。
 二人で電車に乗り、遠慮する彼女の最寄り駅で一緒に降りて、彼女の家までの道のりを歩いた。少しふらつく彼女の腕を取ると、アルコールの所為で赤い彼女の顔が、一層赤くなったような気がした。それはきっと、希望的観測だったのかもしれないけれど。
 同僚と別れる際に、ふざけて言われた送り狼になるなよという言葉が思い出された。狼にまでなる気はないが、今のこの現状が良い機会であることは間違いない。しかし、酔っていては正常な判断が出来ないかもしれないと、隣の彼女をちらと見下ろしながら考える。



 拍手の音で我に返った。こんな時に回想に耽っていた自分に気付いた誰かはいるだろうかと、目線だけで周りを確認するが、幸いこちらに注目しているものはいない。ほっと安堵の息を吐き、皆に遅れながら拍手の輪に入る。

 あの時、あの後の行動が違っていれば、今と違う未来があっただろうか。一瞬一瞬の過去の積み重ねである現在は、その過去の一瞬の判断によって大きく変わる。変えられない過去に思いを馳せて浸る感傷は、苦かったり甘かったり、酸っぱかったり辛かったり、様々だ。

 射し込む朝日を背後に受けた彼女の笑顔に、既視感を覚える。あれは、珍しく早く目が覚めて、いつもより早く出社した日のことだ。まだ誰もいないと思った職場に彼女がいた。窓辺に立って、存在も知らなかった植木に水をあげている彼女の横顔に、挨拶をするタイミングを完全に逃してしまっていた。こちらに気付いた彼女が、笑顔で挨拶をしてくれるまで、惚けて見詰め続けていた。

 職場での彼女の姿が、一コマ一コマ頭を過ぎる。どれももう、見ることは出来ない。



 彼女が退職し、結婚式を終えてから一週間が過ぎた。
 いつも通り、出社する為に朝起きる。僅かに空いたカーテンの隙間から光が一筋射し込んで、起き抜けの目には眩しい。ゆっくりと上体を起こし、何度か瞬きをする内に目覚ましが鳴った。何年も続けている時間のサイクルは、身体にしっかりと染み着いて、目覚ましの鳴るちょっと前に目が覚めるようになっていた。
 保険のつもりでセットしてある目覚ましのアラームを切ると、もぞもぞと動いて寝ぼけ眼で見上げてくる瞳と目が合った。笑み崩れたその顔が、おはようと言うより早く、唇を重ねた。
 驚きで目を開き、照れたように顔を赤くして、それを隠すように胸に顔を押し付けてくる。可愛らしい行動に、ふっと笑みが零れ、頭を抱いて口付けを落とす。
 
 職場で彼女の笑顔を見ることはもう叶わないけれど、その代わり、朝陽の射し込むベッドの上でのはにかんだ笑顔だったり、キッチンで料理をしながらふとした瞬間に振り返って見せる笑顔だったり、帰宅した際に玄関でおかえりなさいと言いながら迎えてくれる笑顔だったり、決して職場では見ることの出来ない彼女の笑顔を、これから一生見ることが出来る。それは、職場での彼女が失われる悲しみよりも、数倍も幸せなことだ。
 唇だけでなく、瞼や頬に何度も口付けると、困ったような嬉しいような、そんな顔で彼女はそれを制する。そして酷く現実的な言葉で押し留めた。
 結婚式に新婚旅行を終え、今日は一週間振りの出社だった。不満気に、最後に唇に長めのキスをする。そしてベッドから下りて、準備を始めた。


 あの時、幸せになって、なんていう他人行儀な言葉を言う気にはならなかった。それは、他でもない、自分の手で成し遂げたいことだったから。
 だから、彼女が退職を決めるきっかけになったあの日、そして、退職する理由になったあの日に、こう言ったのだ。

 ――幸せにする。



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