L→ ←R

NOVEL HOME

side L

 見下ろすその顔は日差しなど知らぬというように白い。白磁と、こういうのをそう喩えるのだろうか。しかし、淡く色づく頬がそこから硬質なイメージを削いでいる。作り物ではない、血の通った人なのだと。
 閉じられた瞼には睫毛が長く隙間なく揃い、影を作っていた。開けば零れそうな程大きな瞳が現れるのを自分は知っている。すっと通った鼻筋に、何も塗っていない筈の赤い唇。

 思わず手を伸ばして確かめていた。指は柔らかい感触を感じ取っただけで、赤いルージュも艶めくグロスも、何も付かなかった。
 その指を自分の唇に触れさせた。硬い、自分の指の感触。

 さっきからずっと、視線が一転に定まったままだ。白の中に咲くようにある赤。
 本能が、理性に勝った。
 吸い寄せられる。蝶を誘う花のように。その、艶やかな赤に。
 さっき指で感じた感触を今度は唇で感じている。柔らかい。だがそれ以上、何も考えられない。

 焦点が合わない程に近い距離。目を閉じるのだと気付いたのは、いつ起きるとも知れない、そんな無防備な相手に暴挙を働いていることを自覚して慌てて離れた後だった。
 どくどくと血の巡る音がする。一瞬か永遠か、きっとそのどちらでもない時間、じっと、その瞼が開かれるか否かを見守った。
 変化はなかった。
 安堵しながらも、どこか残念に思う。開かれて、そして気付いて欲しかった。それは紛れもない本心だ。けれどやはり、安堵の方が強いのだ、今は。

 穏やかな寝顔。知らなければ何もなかったことと同じだ。
 自分だけが覚えている。相手が必要な行為で、それは何とも空しいことか。

 手の甲で唇を拭った。ごしごしと、意に染まぬことであったかのように、乱暴に。そうしたいのは逆だろうに。
 摩擦で腫れあがった唇はじんと痺れを感じた。けれど、刹那に近い間だけ感じたあの感触を消すことなど出来なかった。鮮明に、生々しく、忘れることなど許さぬように、何度も反芻する。意志の介入の外で。

 じりと後ずさる。するとかたんと後ろにあった何かが音を立てた。
 瞼が、開かれる。そう大きな音ではなかった。唇に何か押しつけられても起きなかった人間が、この程度の音で起きるだろうか。浮かぶ疑問を打ち消した。ただのタイミングか、音に反応しやすいだけか。
 軽く瞼を擦り、恥じらいもなく大きな口を開けて欠伸をする。少し潤んだ瞳に、自分が映った。

 立ち上がり、そして見下ろす。いつの間にか、この綺麗な顔は自分より高い位置にあった。
 よく寝た。呟いてふにゃりと崩れるように笑む。この顔が、とても好きだ。
 帰ろう。何の感情も滲ませず、日常の一環のように、そう促す。

 並んで歩くのは、家が近い以外に理由はない。それが日常であるというだけ。習慣と言い換えてもいい。
 隣の、ひょろりと長い幼馴染をちらと見遣る。一つだけ、この習慣に変化があった。
 嘗ては手を繋いで歩いていた。いつしか手を離し、そして、間隔が広がった。今でも、広がり続けている。
 きっかけは、自分の腕の色との対比だった。自分の黒さは隣の白を際立たせていた。

 じゃあ。短い言葉で別れる。それ以上は必要ないから。
 床にバックを投げて、ベッドに自分の身を投げた。スプリングが暫く揺れて、止まった。
 白い肌、瞼が落とす影、色づく唇。フラッシュバックのように画像がちらつく。
 そして、柔らかな、唇の感触。

 指で自分の唇に触れる。硬い、全然違う感触がした。




side R


 がらと、ドアが開く音がして目が覚めた。正しくは、ぼんやりと眠りから覚醒した。まだ目は開けない。
 近づいてくる音と気配がする。それが誰か、知っている。
 何故わかるのか、理由はない。ただ、他の誰かでは、わからない。

 止まり、そのまま動かぬ空気に、まどろみがぶり返す。引き止めるように、唇に何かが触れた。
 指だ。テニスをするから、ラケットを握る手はまめが出来、段々と硬くなっていった。それを知ったのは最近のことだ。嘗ての記憶では自分よりも柔らかかった。
 次はもっと柔らかい何かが触れた。瞼の向こうに影が落ち、微かにかかった熱を孕んだ風が、その何かを明瞭にしている。
 キスをされている。その理由を考えるより前に、それは過去形になった。
 いつの間にかまどろみから遠ざかっていた。目を開けようか。静寂は瞼を重くする。

 かたと、小さく音が鳴った。合図のように目を開ける。
 焼けた、健康的な小麦色の肌。並ぶと自分はまるで病人のよう。
 毎日のようにテニスに勤しむその手足には、適度に筋肉が付きその動きをしなやかにする。それを目にする度に考えることがある。例えば、腕相撲でもしたならどちらが勝つだろう。性別の差で生じる体力差はどこまで通じるのだろう。
 まだ、確かめることが出来ない。未だ出せない勇気か、その逆の投げ遣りさがあれば可能だろうか。

 立ちあがって見下ろした。ただそれだけでわかる唯一の優位。見上げていたのがいつか並び、そして一気に追い抜いた。
 帰ろう。その口調も表情も、まるで何もなかったかのようで。
 どうして。訊いてやろうか。出来ないくせに。

 並んで歩く二人の距離が、少しずつ長くなる。気付かれないようにゆっくりと。きっとそういうつもりなのだろう。けれどちゃんと気付いている。だから、開き過ぎないように、手の届かない距離にはならないように、調整する。こっちは、本当に気付かせないように。
 じゃあ。決して振り向かない背が玄関の中に消えていくのをじっと見る。いつもの日課。
 きっと何か、期待を込めて。それが叶ったことは、未だない。

 ソファに身体を沈め、目を閉じた。
 夢想する。
 あの、自分より健康的に色付いた腕に、病的な白が絡みつく。掴んで引き倒し、圧倒的な優位で見下ろすのだ。そして、隠されているものを暴けばきっと、息を呑む白さがある。
 それに、触れたい。

 目を開ければ、薄暗い部屋が視界に映る。望む存在は、この壁の向こう。
 一体、いつまで我慢できるだろう。

 指で自分の唇に触れる。きっと、そう長くはない。



NOVEL HOME

Copyright © 2009- Mikaduki. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system