終わり 6

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 ついさっきまでいた場所でしていた音が残響のように耳に残っている。少し前までの自分なら、間違いなく不快に思っていただろう。しかし今は違った。
 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下、襟に指を入れてパタパタと風を送り込み、隼人は気休め程度の涼を取りながら歩いていた。授業はとうに終わり、部活動に熱が入り始めたこの時間、当然ながら他には誰もいない。
 校舎に入り、帰ろうと下駄箱に足を向け、鞄を教室に置いてきたことを思い出して軽く舌打ちする。
「めんどくせ」
 4階まで上がらなければいけないことを考えるとこのまま帰ってしまいたくなる。幸い携帯と財布は身に付けているから、大きな支障はない。
 一瞬の誘惑と戦った後、隼人は階段に足をかけた。

 教室には当然の如く、誰もいなかった。ぽつんと一つだけ、窓際の後ろから二番目の席に鞄があるだけ。それを取ろうと隼人が教室に踏み入れると、ポケットが震えた。時間にして3秒程。慣れた感覚に今更驚くこともなく、取り出した携帯電話を開く。思った通りに新着メールを知らせる表示があった。
 届いたメールに目を通し、隼人は眉を顰める。興が失せたように視線を外し、少々乱暴に携帯を閉じてポケットに捻じ込んだ。
 もうここに用はない、帰ろうと踵を返す。隼人以外誰もいない筈の教室、振り返った先、視界に入ったものに虚を突かれた。
「紗耶……」
 同じクラスなのだから、ここにいたっておかしくない。毎日毎日、それはある種拷問のように、同じ教室、同じ空間に隼人と紗耶はいた。だから、それ自体にはもういい加減、慣れてはいた。
 しかし、こんなふうに二人きりになることはなかった。高校に入ってからだけでなく、もっと前から、このシチュエーションはなかった。正確には、紗耶が城野の付き合うようになった、その時から。
 それは、隼人が意図的に避けていたことでもあるし、常に城野が紗耶の隣にいたからでもある。
「まだ帰ってなかったんだ」
「……ああ」
 かつては当り前に出来ていたことが出来なくなった。考える必要などなく自然に、体が反応するままに、ただ身を委ねていればよかった。それが今では、考えて考えて、どうすればいいのか、どうすればいいのだったか、まるでわからない。
 結果、不自然な沈黙。
 相手が紗耶じゃなかったら、さっさと無視してこの場を去るのに。唯一の例外を前にして、隼人は動けない。否、もしかしたら、もう、唯一ではなくなっているのかもしれないけれど。
「何か用でもあったの?」
「別に……」
 素っ気ない対応に紗耶の表情は曇る。
「あ……えっと、何か、久しぶりだよね。こんなふうに二人っきりなのって」
「あ? そうか?」
「そうだよ。一緒のクラスだから毎日顔は見てるけど、こういうのは、えっと……」
 聡司と付き合うようになってからは、なかった。そう続く言葉を紗耶は飲み込んだ。
「別に話すこともないだろ」
「そんな……っ!」
 以前はよく、話をした。聡司には言えないことも、隼人には言えた。幼馴染だけれど、まるで本当の姉弟のように思っていた。
 少なくとも紗耶は、そう思っていた。そして、隼人もそうだと、信じて疑わなかった。
 切欠がが何であったのか、どんなに鈍い者だって流石にわかるだろう。三人の幼馴染、その均衡を破ったのは紗耶と総司だ。
 何かが変わるなんて思っていなかった。それは、ずっと好きだった聡司と恋人同士になれて、舞い上がっていた紗耶の浅慮だったのかもしれないけれど。
 喜んでくれると思っていた。事実、よかったなと、隼人は言ってくれた。
 隼人と過ごす時間が、三人で過ごす時間が減ったのは仕方のないことだった。長年思い続けて、やっと実った幸せに浸っていたいと思うのは無理からぬことで、紗耶だからではなく、誰だってそうだ。
 そして、気付いたら、変わってしまった。
 横たわる目に見えない溝。いつからそこにあっただろう。どうして、そんなものが出来てしまったんだろう。
 悲しみと怒り、それを当人にぶつけようとして、しかし、それを止めたのは聡司だった。はっきりと理由は言わず、悲しげに眉を下げて、そっとしておけと、聡司は言った。
 その時言わなかった理由を、今の紗耶は、知っている。それは極最近で、けれど、本当は薄々知っていたのかもしれない。気付いてはいけないと、無意識に否定していただけなのかもしれない。認めてしまったら、自分がどれだけ隼人に酷いことをしてきたのか、罪悪感に苛まれると、きっと知っていたから。
 だから、何も言えなかった。隼人がしていることに不満を感じていても、それが自分の所為だと思うと、何も言えなかった。

 口を噤んだ紗耶の表情は、ここ数年で見慣れていた。傷ついているような、憐れんでいるような、罪悪感と苛立ちを同時に起こさせる、そんな顔。
 紗耶が好きで、好きな相手にそんな顔をさせたいなどとは思わない。けれど、人の気も知らないで、変わらず話しかけてくる紗耶が腹立たしいと思うことも事実だった。知られたくなくて、知らせないようにして、勝手な理屈だと、わかってはいるが。
 かつては、少しでも傍にいたい、笑顔を見ていたいと、ただそう思っていられたのに、それが城野と付き合うようになって、傍にいて自分を偽るのが辛くなり、笑顔を見るのが苦痛になった。だから距離を置いて、近づこうとする紗耶を突き放した。

「あ、いや……わり」
 がしがしと頭を掻き、表情を隠すように気持ち俯いた隼人の口元は、微かに笑っていた。
 参った。本当に、これはもう、認めないわけにはいかない。
 顔を上げて、紗耶を見た。
 何故だろう、こうして向き合うことがあんなにも苦痛だったのに、今は、違う。痛みが完全に無いとは言わない。けれど、確実に、以前の自分より穏やかに、ここにいれる。
 その理由を、隼人は知っている。そう、あんなにどうでもいいと思っていた告白を自分の意志で断った時から、わかっている。

 ――君は、いつまでそこに留まり続けるんだ?

 浮かぶのは、不敵に笑う顔。

 言われなくたってわかっている。もういい加減、前を見て、進まなくては。
 その為に、
「そうだな……久しぶり、だな」
 必要なことが、ある。ケリをつけなければならないことが。

 一歩、また一歩、紗耶との距離を縮める。そして、向かい合うその距離は、かつてじゃれ合っていたあの頃より、確実にひらいていた。手を伸ばしても、ぎりぎり届かない、触れられない、距離。
「紗耶……」
 呼ぶ声が、切なく響いた。
「ずっと、言いたいことがあったんだ」
「うん……」
 躊躇いの沈黙。しかし、それは一瞬で。
「好きだった」
 紗耶の目に映る隼人は笑っていた。それは、久しぶりに見た幼馴染の笑顔。
「ずっと、紗耶が好きだったよ」

 終わらせよう。この想いを、ちゃんと、終わらせてやろう。



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